生きる強さを外国で知る!今の僕ら日本人が思い出すべきものとは|めんどくさい辛い死にたいを”力”に変換【ベトナム戦争物語】
モノやお金が豊かで毎日の生活に困らない日本。
満たされてそうなのに、決定的な何かが足りないと感じることはありませんか?
2020年の世界幸福度ランキングで日本は156か国中62位という結果でした。
なぜだろう、昭和の時代と比べると日本全体が何かと打たれ弱く貧弱になったように感じます。
世界には、国が豊かではなくともめげることなく、懸命に生き抜いている人たちがいます。
今回はベトナムの友人から紹介された、ある実業家のエピソードをご紹介します。
21歳の彼はベトナムから先進国である日本へ実習生としてやって来て働いていますが、この国の進歩と裕福さに衝撃を受けると同時に、日本人が日々ストレスを抱えている姿に疑問を感じています。なぜ日本の若者は自分の未来を閉ざし、引きこもったり自殺したりするのか…
実名は伏せて欲しいとのことだったので出しませんが、今から約45年前に終結したベトナム戦争とその後の厳しい戦後の復興期間を生き抜いた彼の父親である実業家の伝記。
かつての日本も戦中・戦後を経験した世代の方は同じ苦労をしながらも、へこたれることなく未来に向けて歯を食いしばって前進することを諦めませんでした。
あなたは、この方の人生観や価値観から何を感じるでしょうか。
ある実業家の物語
■ もくじ ■
戦争への恐怖、愛する人を失ってしまう辛さ、貧しさゆえの悲哀。
幼いころの私はそのような日常を生きてきた。
すぐ近くで爆弾や銃撃もよく目にした。
ある日の夏の午後。
中庭で家族と食事をしている最中、20センチ砲弾がかすめ飛び、父の最も高価な財産であった自転車を貫通した。
幸い、誰にも怪我はなかったが誰かの命が失われてもおかしくはなかった。
巨大な100ポンド爆弾が私から100メートルも離れていないところで爆発した事もあった。
爆発音を聞いた刹那、散弾を避けるために地面に伏せるのがやっとだった。
当時、穏やかに眠ることは贅沢なことだった。
爆撃機が空を飛び交う音を聞くと家族全員が跳ね起きて防空壕まで駆け込んだ。
防空壕の入り口はベッドから1メートルと離れておらず、トンネルで繋がれていた。
生と死
私の長姉は有刺鉄線を足に巻き付けられ、戦車に10キロ以上も引きずられて死んだ。
その夜、近くの人達が彼女を埋葬したが、巻きついた有刺鉄線を解いてあげることはできなかった。
民族解放がされた後、別の場所に埋葬するために彼女の墓を掘り起こした時、はじめてその縛りを解いてあげることができた。
叔母は農作業中にクラスター爆弾で死んだ。
生と死は、か細い糸のようなものだった。
さっきまで笑って話をしていたと思ったら、1分後に爆弾と銃撃で死んでしまった者もいた。
予期せぬ多くの死を目の当たりにして、おそらく両親は決意したに違いない。
「予備」として多くの子供を産もうと。
その結果、10人の子供が生まれた。
私たち10人は幸いなことに全員が死を免れることができた。
子供たちの安全のため、私の記憶では両親は少なくとも8年の間に10回は転居せざるをえなかった。
転居先を「住宅」と呼ぶのは大げさな気がする。
というのも、実際のところそれらの「住宅」は近所の人たちの助けを借りて、屋根はわらぶき、壁は竹を藁と粘土で塗り固めて、わずか二日で仕上げたものに過ぎなかったのだから。
戦後の生活
戦争が終わると、私の一家は子だくさんでもあったので深刻な食糧不足に直面することとなった。
困難を乗り切るため全員が仕事をした。
私自身、いろいろな仕事をした。
放牧、米の収穫、陸ガニ狩り、レンガ造り、ペンキ塗り、薪拾い、アカシア油絞り。キャッサバから良質な小麦粉を作ったりもした。
幼い私にとって、最も過酷で苦痛に満ちた仕事は7年生の時から始めたレンガ造りであった。
採掘場の深いところまで降りていき、泥の塊を拾い上げ、山積みにし、一個一個鋳造してレンガを造る。
作業中、背中は酷暑の苛烈な日差しにさらされ、煉瓦窯から吐き出される無数の墨の粉塵を吸い込まざるをえなかった。
私が高校で学んでいた3年間は、国が終戦直後の復興に尽力していた頃であり、ベトナム経済は非常に厳しい下降局面にあった。
自宅から20Km近くも離れた学校に通っていた私にとって唯一の宝物といえば、教室に通うためのアオザイだった。
それが泥で汚れてしまうと洗濯して乾くまでの間、家でじっとしていて待つより他はなく、乾くとすぐに着替えて学校へ向かった。
よりよい生活を実現させるためには勉強が必要であることを悟った私は大いに学び、幸運なことに工科大学に入学を許可された。
5年後、大学は私に教授になって大学に残ってはどうかと提案したが私は断った。大学教授としての人生は、私にとってはまたしても苦難に満ちたものになると思われたからだ。
私は働き始めると同時に英語を勉強し始めたが、当時は英語を学習する者は非常に少なかった。
また、外国人旅行者も少なかった。
わずか10パターンほどの会話文を暗記して流ちょうに使いこなせるようになるまで尋ねたり、答えたりを繰り返し、徐々に勉強の範囲を広げていった。
私は頻繁に「ベトナム人をどう思いますか?」と尋ね、彼らは決まってこう答えた。
『Friendly』
私は幸運なベトナム人学生二人に与えられる英国コベントリーで経営学を学ぶ奨学プログラムを得た一人となった。
すべては夢のようにうまくいったし、イギリスは私にとってまるで天国のような場所だった。
1分も無駄にせず、経営、学ぶこと、英語力を高めることに努力した。
当時は一人で列に加わってバスや電車を待つ間さえ、かの国の文明と礼儀正しさについて多くを学べた。
経営学全般、顧客サービス、何が顧客を満足させるのかについても多くを学んだ。
例えばイギリスの朝食がどのようなものかといった日常的なことについても多くを学んだ。
同様に、いかに西洋人たちが読書文化に特に重きを置いているかについても理解した。
彼らは、何時でもどこでも何かしらを読んでいた。
土地の購入
ある日の美しい昼下がり、愛する幼い娘と散歩している時、小さいながらも観光拠点としての将来性を秘めている土地を見つけた。
その土地は私の心をとらえて離さず、それはもう「一目惚れ」としか表現のしようがなく、私は即座に購入した。
5年後、土地の価格は12倍まで跳ね上がり、多くの人から譲ってくれるよう頼みこまれたが、断固として断った。
私に言わせてみれば、恋人を売るなんてありえないからだ。
銀行ローンを組み、10部屋の小さなホテルを建てた。
毎晩遅くまで、どうすればその狭い区画の中で最適かつ空間効率の良い部屋を設計できるかを考えたものだ。
私たちが日常、心がけている原則がある。
良いサービスを受けられなかったのにお金を払ってしまっては、誰だって後悔して嫌な気持ちになるに決まっているし、逆もしかりである。
そのためにも、私たちは常に最高のサービスを提供し、お客様に喜ん頂けるよう努めている。
最後に
幼少期の絶えまない貧困と苦痛に満ちた過去を思い出すたび、人生をより良いものへと変えていくためには何かせねばと、いつも私は奮い立つ。
私はこう思う。
人生の目標を明確に定め、仕事に情熱を注ぎ、有用な資源を探し求めて活用し、身を粉にして働けば間違いなく成功を収めることができる、と。
以上が私の物語です。
時間を割いて私の物語を読んでいただき、理解して共感していただき、心から感謝申し上げます。
あとがき
以上が、ベトナム戦争とその後の経済の復興の時代を力強く生き抜いてきた一人の実業家の伝記を手直しをして抜粋したものです。
彼は戦争中は生き残るだけで精いっぱいで、熟睡することさえ贅沢なことだったと語っています。
戦争という、毎日が生と死が隣り合わせという特殊な状況下で「生きられるだけでも」という思いや、「普通の生活へのあこがれ」のようなものが彼を強くしたのではないでしょうか。
私たちは毎日を安心して暮らせて、経済状態は家庭ごとに違うものの食べるものには困らないかもしれません。
最悪の場合でも生活保護などの公的セーフティーネットがあります。
そうした毎日の暮らしが当たり前となって、どこかで生きることへの覚悟が薄らいでいるのかもしれない…東南アジア諸国を周っていると、そう感じることがあります。
本来の日本人の姿というのは、ささいなことにも「ありがたい」と感じたり、他者を思いやる優しさと広い心がを持った民族であるはずです。
また、日本の場合は戦後からすでに75年が過ぎ、その傷跡を感じる事もほとんど無くなりました。
それでも原子爆弾をはじめ各地の空襲の焼け跡から、世界でも稀なほどの目覚ましい復興を遂げて今に至ります。
今、忘れかけている何かを思い出すことで、再びあの力を取り戻せないだろうか。また、状況はすぐには変えられなくても前向きな見方ができるのではないだろうか。
そんな風に感じるのです。
トラベルメモでは楽しい旅行だけでなく、自分探しの旅や新しく生まれ変わるための旅も応援しています。
経験した事のない世界への旅へと一歩を踏み出すことで、その後の人生そのものを変えてしまうことさえあるのですから。
すぐそこに衝撃的な価値感、文化や食、人懐っこい笑顔があなたを待っているかもしれません。
Investment in travel is an investment in yourself.
旅行へ投資することは、あなた自身へ投資することだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
またお会いしましょう!
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