世界遺産フエの王宮の城門にベトナム戦争の爪あとと復興の重みを感じる|南北に分断され激戦地となった中部の都市【ベトナム】
べトナムを歩くと弾痕や記念碑などの戦争を思い出させるものに出会うことが多い。食事が美味しく観光地も多いベトナムは海外旅行にも大人気だが、少し前までは国を分けた熾烈な戦争をしていた。
また、命を落とすのは兵士だけではなく民間人も容赦なく標的とされた。
わずか50年ほど前の戦争。生き残った人々は何を思い復興に尽力してきたのだろうか。
アメリカ軍と韓国軍による民間人の大量虐殺も
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その被害はあまりにも大きいものだった。非武装の村人500人以上がアメリカ兵に虐殺されたソンミ―事件、韓国軍によって行われた被害者9000人ともいわれる放火や強姦が特徴的なハミ村・フォンニャット村・タイビン村虐殺事件。現代での日本人からは想像できないような凄惨な行為が民間人に対して行なわれていたものの、韓国側は未だに認めていない。これが戦争の現実だろう。もしも今の日本で同じことが行なわれたとしたら、確実に日本の犯罪史上に残るはずだ。
言論の自由の厳しいベトナムの中では、韓国の退役軍人からの圧力もあり、あまり注目はされないものの、ベトナムの悲しい歴史の中で語り継がれている。
瓦礫と化した歴史建造物を立て直し、フエの人々は力強く生きている。
激戦地フエの城門の弾痕
1868年1月から2月にかけて起きたテト攻勢。なかでもフエは過酷な戦場の一つとなっていた。
現在の壮観な王宮の姿からは想像もできないような攻防が繰り広げられ、多くの人命が散っていった。
砲撃や銃弾が頭上から容赦なく降り注いだだけ。
その弾痕の中には、今でも城門や建造物に残されているものも少なくない。
修復された城門
上の写真はフエの王宮へと続くCửa NGĂNの城門だ。相当なダメージを受けた後修復されたが、まるで継ぎ接ぎ(つぎはぎ)されたように見えないだろうか。
レンガが崩れた後にコンクリートで穴を塞いである。
それほど破壊はすさまじいものだった。当時の王宮周辺の写真を見ても、新しく「復元」した方が簡単だったかもしれないと思うほどの衝撃を受ける。
それでもフエの人々は戦後50年経った今でも、この世界遺産へと続く重要な城門を新しくすることを選ぶのではなく、「補修」することにこだわった。
そこには、全てを忘れて”記録上の事実”として残すのではなく、傷跡として現存物を残しておいて、あの日のことを忘れない強さ、あるいは覚悟のようなものを感じる。
ちなみにこの道路と城門のことをCửa NGĂN(クァグアン)と呼ぶが、歴史は1804年にフエの城塞の建築と同時に使われ始めた。当初は正式な名称が無く、近所の人が好きなように名前を付けて呼んでいたが、やがてその一つが定着したと伝えられている。
ベトナム人の明るさと強さ
ベトナム人は皆、底抜けに明るい。
街を歩くと互いに声を掛け合い、笑い合う。助け合い、関わり合う事を大切にする。また、食堂で誰かと相席になれば初対面でも古い友人のように語らい、すぐに意気投合する。
まるで50年前まで国を二つに分けて戦争をしていたことなど記憶に無いようにも見えるが、決してそうではない。彼らの行き方は、過去を引きずって暗闇に生きるのではなく、前向きに生きる強さを教えてくれる。
そんな旅の魅力もあるのではないだろうか。
フエの城門の行き方
ホテルやレストランのある新市街からチャンティエン橋などを渡って旧市街に入り、王宮に向かうと出会うことができる。一方通行の道で、歩いて渡ったが自動車とバイクがかなり多いので事故には気を付けられたし。