三国志時代にベトナムを支配した士燮!劉備や曹操や孫権の陰に隠れ、越南の交州で人材を育成し漢字教育を導入した知能派の群雄

三国志の時代の士燮(シショウ)という隠れた群雄をご存じだろうか。士燮と彼の一族は【魏・呉・蜀】の時代に、曹操や中央政権への服従を装いながら、権力争いを巧みにかわしながら中国南西部と、ハノイを含む現在のベトナム北部を治めた。三国志というと中国の話というイメージだが、ベトナムにも版図が広げられ現代に至るまで影響を残している。

士燮は西暦137~226年まで、90年の人生の大半を交州で過ごした、漢字や儒教の初めての学校を作るなど、彼の政策は現代ベトナムにも強い影響を残し尊敬を集め教科書にも掲載された。

劉備や孫権と同じ時代を生きるも、派手な戦をしなかったせいか、三国志(正史の歴史書)に登場するのみで、小説型の三国志演義には出てこない。それでも本家の三国志の作者陳寿からは非常に高く評価され、今でもベトナム人が敬愛するほどの人物だ。

今回はそんな密かな逸材、士燮のお話。

ポリフェノール

士燮(シショウ)は中国の南部とベトナム北部と中部を守り抜いた凄腕の太守だったんだ。

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現代のベトナム文化に多大な影響を与えた士燮|その時代に中国から移住した人々の子孫も多いはず

交州の知能派な太守【士燮】シショウ

人生の大半を交州という僻地で過ごしたものの、若い頃は洛陽でも学問を修め見識を広めました。

三国志の中では【魏・呉・蜀】の三国、特に蜀の孫権と巧みな距離感で良好な関係を持ち続け、大きな戦をせずに一族の力を温存させました。

そんな士燮の政治力を頼って、戦乱から逃れた人々が続々と交州に移住してきます。

現在のハノイやニンビン、ハイフォンなどに先祖代々住んでいる方の中には、この頃に中国本土から避難してきた人々の末裔も多いことでしょう。

一般市民だけでなく、のちの中国の中央政権で活躍することになった若手もやってきます。

士燮は彼らを優遇します。もしかしたら若いころに洛陽で学び、今辺境の地である交州で暮らしている自分に同じ影を見たのかもしれません。

交州への民衆の移住と発展

時は戦国時代の真っ最中

日本では魏に使者を送った邪馬台国の卑弥呼が即位する少し前の段階ですね。

その頃の中国では漢王朝の衰退や黄巾の乱を経て、三國志でおなじみの血みどろの戦いに明け暮れており、生き抜くことさえ至難の業

戦いに巻き込まれて町や村が全滅したり、一家が路頭に迷ってしまうなどは日常茶飯事でした。

そんな殺伐とした時代に、権力争いから離れて静かに暮らせる土地を目指す人々がいても何の不思議もありません。

士燮の支配する交州は戦闘のない土地だと聞いた人々が次々に避難して来ました。

実際に士燮が治めていた交州には長い間、戦争がありませんでした。

その背景には中央から物理的に離れていたために攻められにくかったこともありますが、太守である士燮の巧みな駆け引きという政治的な手腕の結果であるところが大きいでしょう。

例えば、中央政権にはせっせと貢ぎ物を定期的に送り続けました。反乱の兆候があるとなれば遠方でも鎮圧部隊が派遣されますが、まんまと従属するフリを続けたことで目を付けられないようにできたという訳です。

きっと正規の貢物に加えて、上級役人への賄賂なんかも忘れずに送っていたんじゃないかと思います。

さらに漢が滅亡した後も、士燮は隣接する呉の孫権に対してうまく対応しました。

士燮と呉と蜀との関係

呉は中国南部を支配した大国。

その気になれば土地の隣接している、士燮の治める交州(今のベトナム)を簡単に奪取できたでしょう。また、呉は蜀の劉備と魏の曹操との争いのため国力を維持したかったので、長年の間、戦に加わらず豊かになった交州はかなり魅力的だったに違いありません。兵力や資源の補給ができるからです。

それで、士燮は呉に攻められないように臣従する形を貫きました。自分の息子を人質として孫権のもとに送り込むことさえして。

まるで織田家に服従していた松平家が幼い日の家康(竹千代)を人質として置いてたのと似ていますよね。

加えて士燮は、呉が水面下で敵対するに対して破壊工作をします。

士燮の蜀への破壊工作

その頃の蜀は崩壊に向かっていました。

名将の関羽雲長張飛翼徳が戦死し、さらに劉備玄徳が死去。

2代目のお坊ちゃま皇帝の劉禅は偉大なパパの劉備に比べると、諸葛亮公明が側にいたとはいえ明らかに力量が不足していました。

呉はそんな世代交代して混乱した蜀を窮地に陥れるための機会をうかがっていましたが、表向きは同盟を結ぼうとしていたので正面切って手を出すわけにはいきませんでした。

それで、交州の士燮という「第三者」に破壊工作を命じます。

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蜀の領地の中から、反乱を起こさせるように仕組んだのです。

人望の厚い劉備玄徳が生きていれば、また猛将の関羽や張飛が生きていれば、あるいは避けられた反乱だったかもしれませんが、この鎮圧のために蜀は兵力を使わざるをえなくなります。

いつの時代も内部分裂って怖いですよね。

そしてこの事件をバックから動かした功績により、士燮は孫権から衛将軍という役職をもらいます。

三国志の隠れた群雄「士燮(シショウ)」がベトナムに残した2つの功績

そもそもベトナムにとって中国は祖国に侵略してきて支配を始めた侵入者。

なので、当然ですが反抗勢力もあり、士燮の前任の太守はそうした反乱分子によって殺されています。

そんな中で赴任した士燮は現地の中華系とベトナムの元々いた部族の両方を共存させる穏健な支配を行ない、結果は大成功。

さらに、儒教の学校を開き漢字教育にも力を入れます。

この二つの功績は特に現代でも認知されています。

ベトナムは、ごく最近の1945年のベトナム民主主義共和国として独立するまで永く漢字を公文書で使ってきました。

それで、ベトナムの上流階級はもちろんのこと、公務員(役人)やエリート達には漢字の学習が必須だったといえます。

今でもベトナムを歩くと、至る所に漢字で書かれた文字が残っています。

その、ベトナム人にとってのステータスともいえる「漢字」を本格的に導入した人物が士燮なので、今でも敬愛されているという訳です。

士燮の墓はバクニン省に建てられており。今もベトナム人の尊敬を集めています。

三国志時代に劉備・曹操・孫権の思惑を巧みにかわしてベトナム越南を治めた士燮の写真
ハノイの東にある士燮の墓所|三国志の時代から現在まで忘れ去られることはない

ベトナム人の士燮についての記憶

士燮がベトナムに残した2大功績として、中国語教育の実施と儒教の初めての学校の設立がありますが、さらに人材を保護し育て、のちの中国の歴史に影響を与えたといってもよいでしょう。

士燮は大規模な戦争はしなかった辺境の策士でしたが、残念ながら彼の死後まもなく、士一族は呉の罠にはまって滅ぼされることになります。

ベトナム語で士燮を書くと

Sĩ Nhiếp(シー・ニエップ)

彼の墓はハノイの中心部からから東に約28km、車で1時間のバクニン省に現在も残され、毎年催し物が行なわれています。

今回は三国志の中でもあまり語られることのない人物「士燮」についてご紹介しました。三国志の英雄たちが中国本土だけでなく日本やベトナムとの関わりがあったことを考えると、また一段と面白いですよね。

 

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